歴史研究家の清水重久さんが考証
飛鳥時代の皇位継承をめぐる壬申(じんしん)の乱(672年)。勝利した大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)と、きさきの鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)らの一行が、三重県鈴鹿亀山地方のどのルートをたどったのかについて、歴史研究家の清水重久さん(81)=鈴鹿市長太(なご)栄町4=が「壬申の乱 異聞」と題して講演した。
亀山市中央公民館が主催する講座の一環。市青少年研修センターで開かれ、30人が聞き入った。壬申の乱で、大海人一行は、山あいの奈良県吉野から三重県伊賀、鈴鹿亀山、四日市など北勢地方を抜けて岐阜県西濃、そして大津宮があった滋賀県に進んだ。最古の歴史書「日本書紀」に「大山」を越えて伊勢国に入り「川曲坂下」に至った記され、清水さんは、史料を示しながら「大山」が津市の錫杖(しゃくじょう)ケ岳(676㍍)との新説を披露した。発掘調査で見つかった古代官道なども考慮して、津市河芸町三行(みゆき)、鈴鹿市三宅町や国府町、平田地区を抜けて、天皇家に血筋がつながる古代豪族・大鹿氏の拠点・鈴鹿市国分町に至ったとし、木田、国分町境が「川曲坂下」と説明した。敗れた大津宮の大友皇子(弘文天皇)にも言及。伊賀市大山田地区の豪族の娘が母親で、日本書紀では、攻められて自害したとされる。落ち延びて、いなべ市をはじめ千葉県房総地方、愛知県三河地方などに墓(陵)などの伝承地があることを紹介した。(酒井直樹)


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